結び雨
結び雨と申します。 歴史創作、武将隊応援等で活動しております。 【注意事項】 歴創には私的解釈を多く含んでいます。 苦手な方は閲覧をお控えください。 【FAについて】 歓迎!できれば報告かタグ「#響きの援軍」の使用をお願いします(義務ではありません)。 【その他】 無断転載自作発言等禁止 【お知らせ】 1/14 創作タイトル名決定!! 『残焔に響く志』 2月下旬~ 随時追加武将更新中!!
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オリジナルキャラクター・作品
Characters & Theme
石田三成
幼名:佐吉 佐和山城主•治部少輔 算術を得意とする武将。 いつもそろばんを携帯している。 近江(今の滋賀県辺り)出身。 幼少期に秀吉と出会い、羽柴(豊臣)家臣として仕えている。思ったことをストレートに言ってしまう為、人によって好き嫌いが分かれる。 秀吉亡き後は家康と対立し関ヶ原の戦いを起こす。 なんだかんだで柿が好き。鷹狩も好き。腹が弱く、よく腹痛を起こす。関ヶ原開戦前もお腹壊した。
島左近
別名:島清興。大和国出身で元々は筒井氏に仕えていたが訳あって出奔。しばし浪人の身になるも、三成に知略と武術を買われ、石田家臣に。「三成に過ぎたるもの」として佐和山城に並ぶ存在とされた。関ヶ原では西軍に立ち、黒田の鉄砲隊と対峙。戦死したとされているが詳細は不明。関ヶ原の戦いで彼の血が白の彼岸花に付いたことから赤い彼岸花の別名では左近花と呼ばれるという逸話がある。
大谷吉継
越前教賀城主・刑部少輔 羽柴(豊臣)家臣の1人。 三成の親友。近江出身(諸説あり)。 人付き合いの苦手な三成の支えに一役買っている。 三成と同様に裏方の仕事が多い。 ハンセン病(と言われているが確証は無い)を患っており、後に顔を隠してすごし始める。 この病のせいか千人斬り事件の犯人として疑われた事があるとか無いとか。関ヶ原の戦いでは病でも友のために参戦し、その後唯一西軍で自刃した。
湯浅五助
大谷吉継の家臣。病を抱えていた主君に付き添い支えた。大谷吉継が自刃する際に介錯をし、主君から「私の顔は酷いゆえ、誰にも分からない所へ隠せ」と告げられたため、主君の首を持って隠そうとした。その際敵軍の藤堂高刑に見つかってしまい、自分の首を差し出す代わりにこのことは内密にするよう願い出る。高刑は了承し、湯浅は討ち取られた。後日藤堂家によって主君である大谷のすぐ側に墓が建てられている。
平塚為広
通称・平九郎。美濃国垂井城主。三浦の家系で豊臣の馬廻を担当していた。石田三成や大谷吉継らと交流がある。関ヶ原では西軍に加勢。開戦前に小早川の様子を怪しみ、事前に暗殺しようと試みた(しかし気づかれ失敗している)。関ヶ原の戦中に戦死。盲目の友(吉継)へ贈った世辞の句が有名。
戸田重政(勝成)
半右衛門、武蔵守。戸田勝隆の弟。元々丹羽氏に仕えていたが後に豊臣へ仕えた。関ヶ原では大谷軍が陣を構える藤下で北国衆の1人として参戦。白地に青丸3つの旗で戦場に立ち、同じ陣に居た平塚為広と共に藤堂・京極軍に対抗、奮戦した。東軍武将らとも面識があり、特に有楽、信成らとは親友で徳川邸で共に酒を飲む仲だったとされる。親友らと戦い戦死した(諸説あり)。 彼と親しかった東軍武将らは彼の死を聞いて涙したという。
小西行長
肥前宇土城主、アゴスチノ 羽柴(豊臣)家臣の1人。 元宇喜多家家臣。キリシタン大名。 堺で商人をした経験があり、 三成同様に算術得意武将。 朝鮮出兵時には無理な遠征と捉え、出兵を取りやめようと動くも失敗。武断派の加藤らとも嫌悪に。関ヶ原では三成の西軍に味方し、最期の最後までついて行った。同僚たちをあだ名で呼ぶ。が、真剣モード時ではちゃんと名前で呼ぶ。
宇喜多秀家
10歳で家督を継いだ人物。その次の年には57万石持ちに。秀吉に大層気にいられ、名前も1部(秀の字)貰っている。嫁さんは前田利家の娘で秀吉の養女の豪姫。その後もどんどん活躍し出世、ついには五大老のひとりに。その後の関ヶ原では西軍最大戦力として奮闘するも敗戦。八丈島へ流される。でもそこで50年ぐらい過ごす。肩から腰にかけてかかってる布の模様は八丈島に彼が植えたとされる蘇鉄がモチーフ。
島津義弘
(調整中)
島津豊久
(調整中)
直江兼続
直江山城主 天下一の陪審 上杉家家老筆頭。 景勝目付け役として仕え、生涯上杉家、 景勝に忠誠を尽くした人物。 正義感が強く、曲がったことが嫌い。 外交を通じて三成と意気投合し、書状で家康を引き付け、結果関ヶ原の戦いを起こす引き金となった。 西軍寄りだったが関ヶ原後は上杉家存続のため東軍側につく。 どこか爽やかな雰囲気をもつ。いつも眉間に鍼を寄せる三成をからかいつつも、体調面で心配している。
真田昌幸
幼名:源五郎 上田城主・表裏比興の者 真田家当主。真田幸隆の三男。元武田家家臣。 有能な策略家として活躍。信幸、信繁(幸村)兄弟の父。 妻が三成の妻と姉妹関係であること(諸説あり)から三成のことを「若造」呼びしている。 敵も味方も予測のできない策と采配で数々の戦で勝利を掴み取ってきた。近寄り難い雰囲気があるが、家族にはとても優しい。
真田信繁(幸村)
戦国最後の武士。昌幸の次男坊。武術が得意。 若い頃人質として他大名勢力下で過ごした経験がある。 三成らと親しくなり、西軍勢力として父と共に家康軍と戦う。 妻が吉継の娘(諸説あり)であるため、大谷家とも縁がある。 大坂の陣では豊臣方として奮戦。その後は討死したとか、逃げた先の寺院で敵の足軽兵に首を差し出して手柄にするよう言ったとか、生き残って秀頼と九州に逃げ延びたなどと多くの噂や逸話があったりする。
徳川家康
内府殿、三英傑の1人、初代江戸幕府将軍、大権現…… 言わずと知れた大大名。三河出身で織田信長らとも関わりの深い武将。秀吉亡き後、力を強めていく。関ヶ原では東軍の大将として参戦。莫大な兵数を引き連れ指揮。戦いに勝利し世を太平へと導いた。 温厚で優しそうな雰囲気を持つが、裏に潜む野望がごく稀に垣間見える。
黒田長政
黒田官兵衛の息子。信長が父の行動に勘違いして激高し、息子として処刑されかける。が、竹中半兵衛の機転の利いた方法でなんとか死を免れる。その後数多くの戦で戦績を残し、父が隠居して家督を継いだ時には12万石の大名に。三成と仲が悪くしばしば対立。当然、関ヶ原も東軍に着く。鉄砲隊を駆使し左近隊を撃破。関ヶ原後は福岡藩主として活躍。怒りっぽいが、それを治すためかたまに家臣たちと「怒らない会」を行っている。
田中吉政
羽柴秀吉の甥にあたる羽柴秀次の宿老、後に家老筆頭として活躍。秀次、秀吉亡き後は家康に接近。関ヶ原でも東軍として参戦し、西軍最大勢力の宇喜多軍を少数軍で相手をした。関ヶ原後に三成を捕縛。お腹壊してたからニラ雑炊作ってあげた。その後家康に突き出したけど。おおらかな人であまり失敗等は気にしない人。岡崎城主の時期には、ほぼ毎日のように城下町を散策しては腹が減ったら城下町の色んなところで弁当食べてる。
藤堂高虎
初代津藩藩主。幼名は与吉。 元浅井家臣だが、色々あって仕官先を転々とする。 (計七回) 身長は一九〇センチ。甘党で白餅がとにかく大好き。 築城が得意で、三大築城の名手の一人として伝えられている。 不忠義者とか言われがちだけど忠義心は人一倍ある。 思いついたらすぐ設計図がかけるように、筆記具を携帯している。 胸元にある風呂敷には非常食のあんころ餅が入っている。
藤堂高刑
高虎の甥。旧姓は鈴木。通称・仁右衛門。1592年の朝鮮出兵で初陣した。関ヶ原では伯父と同じく東軍につく。決着が着きかけた頃、谷水を求めて山に入った際、大谷吉継の首を隠している湯浅五助を目撃。討とうとした際、湯浅から大谷の首の在処は秘密にするように言われ、約束を交わした。湯浅の首をとった後は彼との約束を守り大谷の首の在処を誰にも話さなかった。この縁からか大谷や湯浅の墓は藤堂家が建てたとされている。
京極高次
四職の一家、京極家の人だが、家臣の浅井氏に下克上され一気に衰退。明智光秀や柴田勝家などを宛にするも次々と起こる戦で宛を無くす。途方に暮れた中、秀吉の側室となった妹によってなんとか助命され、秀吉家臣に。その後、あの浅井三姉妹の次女お初と結婚。関ヶ原は東軍についた。妹や妻の地位的高さにたすけられているという揶揄を込めて「蛍大名」と言われた。「確かに妹も妻も大切だ、だから命かけて守るって決めてんだよ。」
京極高知
京極高次の弟。 関ヶ原では東軍に属し、藤堂高虎陣付近に兵を並べた。 大谷軍と戦い武功を残すも、大津城で戦っていた兄の援護には間に合わなかった。関ヶ原後は丹後国領主(約12万石)となった後、大坂の陣でも活躍。 熱心なキリシタンであったとされている。
福島正則
幼名:市松 賤ヶ岳七本槍の一番槍 羽柴(豊臣)家臣の1人。力が強く、羽柴(豊臣)軍の主戦力としても活躍。幼少期から秀吉に仕える子飼い将でもある。実家が桶屋。大のお酒好きで、酒絡みでやらかした逸話が何個か残っている。 酒を与えてはいけない。 豪快で荒っぽく突出する性格だが、秀吉への恩義は人一倍強い。愛すべき馬鹿。三成とはよく喧嘩する。
加藤清正
幼名:虎之助(夜又若) 肥後国熊本藩初代藩主 羽柴(豊臣)家臣の1人。体が大きく、力も強い武将で賤ヶ岳七本槍の一人でもある。正則と同様に秀吉の親戚一族の息子。実家は鍛治屋。子飼い将として幼い頃から秀吉に仕える。朝鮮出兵では主力軍として活躍。虎にまつわる話が多い人。そして熊本が馬刺しで有名なのはこの人の影響から。築城の名手としても有名で藤堂高虎や黒田官兵衛らと肩を並べる程(三大築城家)。
細川忠興
(調整中)
井伊直政
(調整中)
本多忠勝
(調整中)
筒井定次
通称藤四郎。順慶の養子に入り、筒井家の家督を継ぐ。 伊賀上野城主(関ヶ原後に起きた騒動の後は高虎が城主となる)。1591年に長崎で洗礼を受けキリシタンに。関ヶ原では東軍に付くも、会津征伐中に伊賀上野を留守にしていたため、西軍の新圧親子に城を取られてしまう。しかし家康の許可を得、奪還した後、本戦へも参戦。 島左近の元主君でもある(別の家臣、中坊秀祐との対立によって島は出奔した)。
小早川秀秋
3歳の頃に秀吉の養子となり7歳で後継者のひとりとして10万石の大名になった。期待されるのもつかの間、秀吉の子秀頼が産まれると、黒田孝高によって毛利輝元の養子になるよう勧められるが、その後色々あって小早川隆景の養子となる。豊臣秀次の切腹騒動、朝鮮出兵でも色々と巻き込まれていく。そして関ヶ原。騒動に巻き込まれ続け、期待されては離されてきた彼が見る世界とは何か。微笑みの裏にある心の枷が外れた彼の姿とは。
脇坂安治
甚内、中務少輔。近江国出身で、賤ヶ岳の七本槍の1人としても有名。淡路国洲本城主。家紋である「輪違」は、秀吉から受け取った赤母衣の模様からが由来とされている。敵対していた赤井直正から貂の皮を貰った逸話がある。関ヶ原では表向きでは西軍に属してたが、小早川が寝返った前後で自身も東軍側に着き、大谷軍に突撃した。裏で藤堂高虎と通じていたとされている。
吉川広家
通称・次郎五郎、又次郎。民部少輔、蔵人。9歳で初陣を果たし、当時はうつけ者と揶揄されたいた。毛利両角の一角でもある。関ヶ原では正則や黒田と通じ、毛利家存続の代わりに本戦では傍観を貫いた。「宰相殿の空弁当」で有名。正妻は宇喜多秀家の姉・容光院だったが結婚して2年で妻が亡くなってしまう。しかしその後は新しく正妻を置くことはなかった。毛利側の人間で後の長州藩に名残を残した人物でもある。
寺沢広高
(調整中)
おたあ・ジュリア
朝鮮出兵の際、小西と出会った少女。当時は幼く、両親もいなかったため小西の保護によって来日。小西家の1人として成長。関ヶ原後に没落していく小西家だが、彼女は徳川の下女として連れていかれ、美貌の持ち主であったため徳川の側室になるよう言われたが、「私は小西家の人間」というのを理由に断る。その後は伊豆に流されたり、大阪で暮らしたり、晩年は長崎で過ごしたりする。行長の影響でキリシタンに。異名は茨の中の薔薇。
宗義智
長年、日・朝鮮の交易を取り仕切る家系、宗氏の当主。小西行長の義息子でキリシタン。洗礼名はダリオ。秀吉からの命と朝鮮との信頼関係維持で揺らぎ、結果朝鮮出兵を招いてしまう。朝鮮出兵時には小西隊に続き参戦。朝鮮出兵後の関ヶ原では西軍に属す。後に朝鮮外交回復のため、家康から安堵された後、国交回復に尽力。関ヶ原から9年後の1609年に国交を回復させることに成功する。初代対馬府中藩の藩主